女性「9条の会」ニュース18 号 2011年7月号

1面                  

  女性にとって平和はとりわけ重要
                           坂本 福子(弁護士)

 

  3月11日の地震を契機に起きた原発問題は今、社会では大きく問題となっています。これまで地震による被害は多々ありました。しかし今回は地震という天災の問題ではなく、原発問題という人災による大きな被害です。元々日本は平和を定め、九条は平和を明確にうたっています。

日本の憲法は、戦争を契機に多くの人々が生活を破壊され、人命を失い、悲惨な生活を余儀なくされたことを鑑み、そのようなことをもう絶対に起こしたくない、その願いを込め、永遠の平和を願って定められたものです。 今、国の基本法である憲法に立ち返るとき、もう原発は廃止せざるを得ない、エネルギー政策について持続可能な政策を打ち立てていくことが必要でしょう。すでにドイツでは政策方針として遅くても2022年までに現在電力供給の約23%をになっている原子力発電からの脱却方針を目指し、風力などの再生可能なエネルギーを中心とした構造へと転換を目指し、オーストリアでは、2015年までに輸入電力も脱原発の方針をかためるとされています。
 日本国憲法はその前文で平和をうたい、九条はその具体的条文です。
 そして九条は私たちの生活の安定に欠かせない条文であり、とりわけ女性にとっては重要です。
 1975年、「平等・発展・平和」をテーマに世界133カ国から、メキシコに集まり、世界行動計画を採択し、1979年には、国連第34回総会で女性差別撤廃条約が採択されました。この条約の特徴は、第一に男女平等は世界の平和によって達成されると位置づけています。第二に母性の権利の尊重は社会的な重要な権利であると位置づけるとともに、子どもの権利を重要視しています。第三に男女平等を達成するためには暫定措置(ポジティブアクション)を認め、差別解消のための早期達成を目指しています。日本も1985年この条約を批准しました。
 平和が基礎。日本の憲法、そして九条は大切な条文です。平和がなければ人間の平等は達成できません。このことは世界の平和を願い、そしてもちろん日本がその平和を推し進めることでしょう。
 全国的な女性の九条の会は、各地で大きく広げ、活動していきたいと思います。(女性「九条の会」呼びかけ人)

 

2面・3面    女性「九条の会」学習会の報告                    

 6月18日(土)、国際問題評論家の北沢洋子さんと作家で評論家の吉武輝子さんをお迎えして、婦選会館に於いて学習会を開催しました。
 最初に、ニュース17号で紹介した「スペイン、カナリア諸島の九条の碑についての、テルデ市長の話」を収めたDVDを視聴しました。市長は「世界の平和は日本国憲法9条の理念でしか達成でき
ない。日本は世界に『崇高な 理想』を示したのた」と語ります。わずか10分のDVDですが心を打つ記録でした。
 司会は弁護士の志田なや子さん、開会挨拶は江尻美穂子さん、閉会挨拶は本尾良さんでした。参加者は65人。


 

 日本の外交と軍事を考える    北沢洋子さん(国際問題評論家)


 

 外交と軍事の関係を一言で言えば、「戦争は外 交の失敗である」 ということである。 
 日本の憲法には、第九条に、 戦争放棄・非武装が書かれているが、それをどうやって実現するかの答えは、日本国憲法の前文に書かれている。前文には 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」そして「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とある。「恐怖」は戦争の恐怖、「欠乏」は餓え。つまり、「戦争と餓え」を解決することが日本の義務なのだと、憲法前文は書いている。

「国連憲章」と「世界人権宣言」
 世界の規範は「国連憲章」と「世界人権宣言」であり、この二つが国際問題の柱になっている。日本国憲法と国連憲章を照らし合わせて読むと非常に似ている。国連憲章の前文には、わずか60年かそこらの間に、人類は愚かにも二度の世界大戦を起こしたことを反省すると書かれているが、これは重要なことである。
 また、「国際平和と安全のために、国家間の紛争の解決のための努力を惜しまない」と日本の憲法と同じようなことが書いてある。国連はその解決の道具として、安全保障理事会をつくった。今国連ではすべてをコンセンサスで決めることになっている。そのために、一語一語を全部議論して合意をとっていく、合意が得られるまでふさわしい言葉を探し、みんなが賛成するようなものにしていくというコンセンサス主義が国連のモットーになっている。
 更に、国連憲章には、「社会経済理事会にNGO(非政府組織)をオブザーバーとする」という言葉が入っている。なぜなら、国家は国益を代表するが、それは常に対立するものだからだ。対立の結果、外交の失敗で戦争が起こるということもあり得るので、これを避けるために、民の声を聞くということで、NGOの参加が1945 年にはすでに決まっていた。現在は、開発NGO、人権NGO、環境NGO、平和NGOなどがNGOとして参加している。

安全保障についての考え方
 日本では安全保障は軍事としか理解されていない。しかし、ある意味では何も考えていないとも言える
のではないだろうか。ソ連や北朝鮮を仮想敵国にしていながら、日本海に面して原発を平然とつくっていったという安全保障についての考え方を私は理解できない。
 ヨーロッパでは安全保障を経済、社会、文化と多岐にわたったものであると考えている。同じ敗戦国である西ドイツと比較すると、日本は1960年代に、エネルギーを、石炭から、中東からの安い石油エネルギーに変えてしまったが、ドイツは半分だけ残している。安全保障をエネルギーの面でも確保しておく。効率は悪いけれども、国家の安全を考えたら、100%中東に依存するのは危険であると考えたわけだ。また、日本は50年代には大豆の生産をやめ、100%アメリカからの輸入に代えてしまった。小麦も同じ。ところがドイツでは半分は国内でつくる。コスト高になるけれども残して半分を輸入してきた。
 私は、経済を軍備で守るという考え方は不可能であると思う。日本がソ連に対抗するために、あるいはアメリカに対抗するために軍備を持つなら、猛烈な核を持って経済が破産するぐらいに軍備を強めなければならないだろう。だから、経済、社会、文化など、多岐にわたった安全保障を考えるべきだし、私たちも将来そういう考え方をしていかなければならないと思う。

日本は国際社会の中で孤児である
 世界は今ブロック化している。EUをはじめ、アフリカグループ、ASEANグループ、南インドグループ、中南米グループなどが活発に発言し、もうアメリカ一辺倒ではなくなってきている。その中にあって日本はどこにも属していない。属しているとしたらアメリカであって、アメリカのお先棒担ぎをしている。
投票などの時に、本当は日本は反対でも賛成でもなくても、アメリカが反対していると反対する。時々アメリカに裏切られて日本だけが宙に浮くこともある。日本は今までは豊かだったからそれなりの尊敬を受けていたのだが、今はもう存在価値がないという感じになっていて、開催地のニュースには名前も出てこない。
 本来日本は、全分野に対して、安全保障に基づいた外交を展開して、アジアの中の一国であるけれども、先進工業国であるという立場を利用すれば、南北間の対立などに対してもフリーに活躍できる筈だ。それができるのは日本しかない筈なのに、それを全くやろうとしない。そのくせ、未だに外交は国家の専権事項であると言ってIQが高いだけで何もないお役人が外交を握っていることは憂うべきだ。

日本がとるべき道
 日本が九条を実現するために何をしなければいけないかというと、外交である。外交も狭い意味の外交ではなく、社会分野全体に広がった外交を考えていきたいし、外交は国家の専権事項ではない。私たちも外交ができるし、私たちの誰かが条約のサインをすることはできないけれども、世論をつくって政府にやらせていくことは市民社会の責務だと思う。国際社会の中で日本が果たすべき役割はたくさんあるわけだから、それについての、草の根、市民社会の意見を持って活動していくべきだと思う。

 

次世代に無傷で平和憲法を手渡したい 吉武輝子さん(作家・評論家)

 

 私は64歳から6年間、中央大学の法学部で非常勤講師として「女性学」を教えてきた。
「今の若い人は…」と、とかく大人は言いたがる。確かに彼らは大勢の前で意見を言うことはしたがらない。偏差値教育のおかげで、人と違うことをみんなの前でさらけ出すのが嫌だというので、立ち上がってしゃべろうとはしない。でもレポートを書かせたら、表も裏もびっちり書いてくる。書いたものを読むと、本当にいろんな若者がいるんだなとしみじみと大人の優しさのなさをわからせられた。だけど話をしていると、毛穴から何ともいえない寄る辺のない孤独がにじみ出ている。そのうちに、この孤独感は、生まれた以前の闇を現代史を学ぶことで自覚し、現実を理解し、未来志向を抱くことを奪われている結果なんだということがわかってきた。そこで私は「女性学」を知識として語るのではなく、自分史、つまり時代の語り部になって、彼ら彼女らの暗い闇を取っ払って、未来志向を持つことができるようにしたいと思うようになり、6年間、自分史を語り続けた
 私は1931年の7月に生まれた。その年の9月には満州事変が始まる。だから敗戦を迎えたのは14歳。ということは、私は平和を知らない子どもとして育ったわけだ。戦時中の教育を受け、軍国主義を刷り込まれて、私は見事な軍国少女になっていた。
今でも申し訳ないなと思うのは、学徒出陣の関東地区の人たちが神宮の競技場で一万人近くが閲兵式をやったとき、私は学生として軍国少女だから雨が降っているスタンドに腰をかけて一生懸命旗を振った。その1万人もの若い学徒出陣の人たちが、雨の中をゲートル巻いて歩く、ザックザックという音が、今でも目をつぶっていると聞こえてくる。戦後しばらくしてから高良留美子さんという詩人が、「兄弟を殺しに」という詩の中で、「女たちは旗を振ってはならなかった」と書いていた、それを読んだとき、私は号泣した。生きていたいと思った人が私の旗のために死んでいったんじゃないかと、今でも申し訳なさでいっぱいになる。
 私は、21世紀は平和の世紀にしたいと思って必死になっていたのに、あの9.11テロのおかげで21世紀は戦争の世紀になってしまった。がっかりしてやる気が萎えたときには、一人でふらりと無言館に出かける。無言館には、亡くなった画学生の絵が、ずらっと掛けられている。これが全員、家族か恋人を描いている。見ていると、もうどの絵からも、「同じ轍を踏ませないで!」という声が聞こえてきて、胸がいっぱいになる。無言館が有言館になる。私はその真ん中でずーっと座って、その有言を聞いているうちに、「やらねばいかん」と自分に喝をいれて帰って来るのだ。
まだ生理も始まっていない14歳の時のこと、ひとまわり違いの弟と青山墓地で桜のレイをつくっていたときに、第八騎兵隊の兵士たち5人にレイプされた。人間は最も辛いことは忘れるようにできているので、そのことは覚えていないが、弟の手を引いて家に帰りながら、私はこのことを母には言うまいと心に誓った。なぜなら、その頃の女性は、子どもを通してしか認められない存在でしかなかったから、多分母は私を疎んじるようになるだろうと思ったからだ。私が通っていた学校は、人格よりも処女膜の方が上だという徹底した教育をしていた。その中で、友達が愛する資格や結婚する資格を持って生き生きしているのに、私にはもうその資格がなくなったと思えてきて、生きていくことが辛くなり、二度も自殺未遂を繰り返した。でも、二回目の時に、私を病院に運んでくれた近所の交番のお巡りさんが、心配で訪ねてきて、私に「おじょうさん、何があったかしらないけれど、人間というものは何があったではなくて、これから先どう生きるかがその人の価値を問うんだよ。命が助かったということは、神様が生きて甲斐ある身なんだということを認めたんだから」と言ってくれたのだった。私は今でもその言葉を母親でも父親でも学校の先生でも、一言でも言ってくれれば、こんなに苦しい思いをしなかったのにと思う。私はこの言葉で生き返る思いがした。
 そしてだんだんその問題について深く考えるようになったときに、性の解放をかかげた、ウーマンリブ運動などが起きてきて、はっと気がついたのは、性暴力は男と女の対立の問題ではない、男女の人権の問題なのだということだった。当時は、男の人権も蹂躙され尽くしていた。赤紙一枚で、死にに行かなければならない、そして軍隊という暴力集団の中で、徹底して男の人権が蹂躙される。男の人権が蹂躙されると、弱い者へ弱い者へと人権を侵害していく。だから日本の場合は、強姦する兵こそ良き兵士であるという、上に向かって人権侵害であるなどと言わせないように、下に下に暴力の付けを回していく、そういう国をつくってきたのだ。私は「性暴力は男と女の対立問題ではなく、男と女の人権問題なんだ」ということがわかったときから、何としても教えている学生たちが人権を損ねられることなく、生き続けてほしいという思いを込めて、私のレイプ体験をきちっと話すということをしていった。
 私がその話を終えたら、学生がみんな立ち上がって、総拍手をしてくれた。私はその時に、やっぱり私たち大人には、時代の語り部になって、平和憲法を無傷で次世代に手渡していく責任がある。それが大人の義務であることを痛感させられたのである。

 

 改憲の動きに注意!

 震災の記事に隠れて、マスメディアではほとんど報道されていませんが、国会では改憲の動きが着々と進んでいます。参議院では、5月18日、改憲手続き法にもとづき、改憲原案の審査をする権限をもつ憲法審査会の規定を採択しました。(反対は日本共産党と社民党のみ)
 民主党は5月10日、憲法審査会を設置し、前原誠司前外相が会長に就任、「しっかり憲法論議をする」と言っています。  
 
◆「市川房枝基金」授与に励まされて
 私たち 女性「九条の会」は、昨年11月、第28回「市川房枝基金」をいただきました。この基金は市川さん(1893〜1981)が1953年の国会議員初当選時から歳費の値上げに反対して積み立てられた資金です。「(財)市川房枝記念会」はそのご意志を受けて1983年以来、政治浄化、女性の積極的活動等々に役立てたいと、毎年公募して、これまで40件余の個人・団体等に贈って来られました。
同記念会は2009年に「(財)市川房枝記念会・女性と政治センター」と名称変更してからもこの事業を続けておられます。
 基金をお受けした女性「九条の会」は、こうした長い歴史もふまえ、いただいた基金10万円を活用して、日本国憲法の力を若い世代と共に生かすことができるリーフレットをつくり、運動に役立てたいと、完成を急いでいるところです。
 「九条の会」が、2004年「憲法9条、未来をひらく」として発足し、この運動に共感した女性たちが、女性「九条の会」をつくろうと16人の呼びかけ人と賛同者600人で2005年2月に発足。以来すでに6年を経過、運動も発展しています。
 「基金授与」を契機に、全国の賛同者の力で、若い方々への働きかけを強め、日本と世界の平和な未来を切り開いていこうではありませんか。